筑紫戒壇院は天下三戒壇の一つとして、大和の東大寺、下野の薬師寺の戒壇とともに知られています。東大寺に戒壇が設けられ聖武上皇を始め孝謙天皇や貴族等約400人が授戒したのは、鑑真和上が日本へ到着した翌年、天平勝宝6年(754)でした。
筑紫野の戒壇は天平宝字5年(761)聖武上皇勅願によって、観世音寺境内の南西の一角に設置され、九州の僧尼達の登壇授戒の道場として継承されて来ました。しかしながら戒壇創設の頃から、17世紀後半までの歴史はあまり確かではありません。東大寺の戒壇は十師が置かれ、東西の戒壇は五師でした。筑紫戒壇は西戒壇とも言われました。
近世の復興は寛文9年(1669)戒壇院の本尊毘廬舎那仏の修復に始まり、本堂の再建、修改築が行われました。その間に涅槃図の寄附(天和3年1683)、脇仏(文殊菩薩、弥勒菩薩 元禄13年1700)の新造、開山鑑真和上像の造立(宝永2年1705)、又鐘楼と梵鐘(元禄14年1701)が造られ筑紫野に梵鐘の音が響き渡りました。
元禄16年(1703)福岡藩三代藩主黒田光之の藩命によって博多禅宗、四ヶ寺(聖福寺、崇福寺、承天寺、妙楽寺)の管理下に置かれ、観世音寺から独立しました。明治6年(1873)臨済宗妙心寺派、博多 聖福寺の末寺となりました。
明治37年(1904)聖武天皇と鑑真和上の1150年諱法要が戒壇院近世中興東瀛老師(聖福寺128世)によって行われ、大授戒会も行われた。昭和36年(1961)開創1200年遠忌を真応和尚によって行われ庫裏等修改築されました。
平成3年(1991)台風により、本堂、庫裡に甚大な被害を被りましたが、平成6年復興されました。